概念と哀愁

notion & emotion

もっと嫌いなものを愛せ

ここ数年、私は常々と思うようになった。

 

なぜ嫌いなものはそんなに蓋をされてしまうのだろう、と。

 

勘違いしてほしくないのだが、好きなものを語るなとか嫌いなものを積極的に主張しろと言っているわけではない。ましてやそれを他人や不特定多数に絶対に許容しろとも思っていない。

『嫌い』という感情ももっと尊重されていいだろうという思いなのだ。

 

『嫌い』を愛するというのは、嫌いという感情に任せて何をしても言ってもいいというわけではない。

それは『好き』という感情にも言えることだけれど。

 

 

『好き』を語るのが自己紹介なら、『嫌い』は自己分析だと私は思っている。

 

好きなものに好きである理由やきっかけがあるように、嫌いにだってあるはずだ。もしくは言葉には表せない直感や生理的なものかもしれないし『嫌いに理由はない』という見解だってある。好きな感情と同じように。

 

小学生の時、妹の同級生ににんじんがものすごく嫌いな男の子がいた。

彼のにんじん嫌いは相当なもので『将来大統領になってにんじん畑にミサイルを落とす』と言うほどでそれをネタにされていたくらいだった。

子供特有の飛躍的で突拍子もない発言だけれど、その大きな情熱は感じ取れる。日本に大統領はいないとか、にんじん農家さんもがんばっているとか色々言いたいことはあるけれど。

なぜだか私はとても清清しいなと思った。彼がなぜそんなににんじんが嫌いなのかはわからないけれど、大統領になってにんじん畑をなくすほどの強い気持ちを引き出しているのだから原動力としては大きい。彼が今もにんじん嫌いでその気持ちが変わらず大統領を目指しているなら馬鹿にできないことではないだろうか。たぶんそんなことはないと思いたいが。

 

『嫌い』って『好き』と同じくらい大きなパワーで原動力だ。

 

私は昨今の多様性を認め好きなものを全力で好きと発信していく世の中の流れはとてもいいと思うし尊重されるべきだと思う。けれど『嫌い』なものをどんどん淘汰して蓋をして押し殺してしまいかねない風潮にはいかがなものかと思っている。

『嫌い』と主張することは『好きなひとへの攻撃』になるというのはそうだれど、じゃあ『好き』を主張することはそうはならないのか?毎日世界に誕生日の人がいるように命日の人だっている。その中でどちらかに『それは誰かを傷つけるからやめるべきだ』というのはどちらも悪くない中に被害者と加害者を生む。

そうは言ってもナイーブなことだということは理解している。そしてもちろん『好きと同じように嫌いを主張する』ことを武器にしては絶対いけない。誰かを攻撃する意図を持ってしまったらそれはただの兵器なのだ。

『好きだから何をしてもいい』と『嫌いなことをぶつけてもいい』は少なからず明確に自分でなく他人に対してナイフになる。

 

私はこれが好きだけれど、他人にそれを強要しない。

私はこれが嫌いだけれど、他人を傷つける意図はない。

 

言ってしまえばそれは自分の感情で、他のだれかのものではないし誰かにそれを押し付けることも誰かに奪われることもないことだ。

 

私は私の好きも嫌いも自分のものだから他人に押し付ける気はない。

嫌いだって大事にしたい感情なのだ。

 

『共有したい』『共感したい』と思うとそれはまたすこし形をかえると思うけれど、概ね完結した感情だと思っている。

その上で、好きという感情はプラスの要素として人間関係や価値観に広がりをもてるものだと思う。

『好き』を自己紹介だと言ったのはそういう理由だ。

 

 

私には嫌いなものがたくさんある。

積極的に主張はしてこなかったし、つい数年前までは『こんなこと表で言っちゃいけない。好きな人もいるんだから』と思っていたし、好きなもので自己表現する人たちに憧れてもいたから『これを嫌いなんて思っちゃいけない』とまで考えるようになっていた。

 

『嫌い』を認めないままでいるとどうなるか。

『好き』を考える時間がぐんと減って、『好き』がわからなくなる。

 

本当に冗談でなく四六時中『嫌い』なことを考えて、でも『嫌い』の感情を無視し続けた。そうすると『うるさいな、なんで嫌いなのにずっといるの。好きにもなれないのに』と思い続けて情緒が落ち着かなかった。

私は臭いものに蓋理論で嫌いなものを放置していたけれど、結局それはずっとそこにあって『蓋を開けたら臭いんだろうな』という考えが視界の隅にちらついていた。

みんなは好きなのに、自分はそれを好きになれないことも疎ましかったし自分がどんどん嫌になった。好きになれれば楽なのだろうかと何度も思ったけれどやっぱり嫌いだった。

 

好きなものを考える時間がどんどんなくなって、結果的に『嫌いなものがたくさんあって好きなものがわからないオタク』という最低な自分が出来上がった。好きなものってなんだっけ?なんで好きだったんだっけ。好きってなんだっけ?

 

嫌いなものを無視していただけなのに。

 

もしかした嫌いなものにフォーカスする暇もないくらい好きなものに没頭していたらそんなことはなかったのかもしれない。結果として私は『嫌いを放置する自分』を無視できずにそうなってしまった。好きなものへの焦点の当て方を忘れるくらいに。

 

そうなると目の前には蓋からあふれ出す『嫌い』が残る。

そうか、お前がそんなに私が好きならちゃんと面と向かって『嫌い』と言ってやるよ。

私は『嫌い』を愛することにした。

 

私の中の『愛する』定義は『好き』とは違う。それがどんな形であれ認めることだ。自分はそれをどう思っているか肯定すること。

あえてその肯定から外れた努力もしない。嫌いを好きになろうともしないし、わからないことはわからないと肯定する。曖昧でも半端でも、曖昧だし半端だと素直に感じる。

私は今、『それ』を『こう思っている』と『向きあう』こと。

 

ぼんやりと嫌いだと思っていたものに嫌いの理由を聞くと割りと理由は出てきた。もちろんそれを斥けて『うるせぇ!!!!嫌いだ!!!!』としか出てこないものもあったが、それはそれでわかりやすくていいと思った。

そうしていくうちに『私はこれが嫌いか。おもしろいな』と思うようになった。ハイになっていたのか、ある種の熱量に圧されて思わず笑ってしまったのかとにかく自分てこう思う人間だったのかとおかしく思えてきたのだ。

もっと昔、特に嫌いなものはないなと思っていた自分からは考えられないけれど、嫌いなものがたくさんある自分の方が人間的に魅力的だと思った。

 

嫌いなことに変わりはないし、やっぱり嫌いな感情は決して良いものではなかったけれど。

 

嫌いなものと向き合うまでは蓋の中で渦巻いていた臭いものだったけれど、開けてみれば今はそこまで匂わない。まったくないわけでもないし蓋をしないとやり過ごせないときもあるけれど、私は元気です。

 

『嫌い』は自己分析。

私の嫌いは私の好きと表裏一体に出来上がっていた。嫌いなものに感情をぶつけ、名前をつけていたら『私ってだからあれが好きなんじゃなかった?』と好きなものが顔を出していきてだんだんと自分の軸が戻ってきた。

そうすると好きなものを考える時間も増えてきた。やっぱりこれが好きだったじゃん!と好きなものの肩を小突く。久々に会えた好きな物は嫌いの中にあったなんてちょっと冗談じゃないけれど。

嫌いだと強く思っていたものが大したことがないものだったり、時間が解決していたものもあった。私がこんなに考えていたのになんだよ。もちろん特級呪物みたいなものもあるけれど。まぁ、うまく付き合おう。

 

 

誰かが好きなものでも、世の中の人が良いと言ってるものでも嫌いでいい。

全てを愛さなくていいし、嫌いな気持ちに悲しくなってもいい。

好きなものと同じくらい本当は尊重されるべきもの。

 

その嫌いな気持ち、自分だけのものなので大切にしてください。

嫌いなものを愛せなくても『愛せないな』でいい。

 

多様性ってそういうことでしょ?