イタリアの女優、ソフィア・ローレンの言葉。
私は彼女のことは知らないけれど、この言葉から彼女の人生が少しだけ見える気がする。
失敗は成功を得るための対価ではない。時に憎らしく、時に致し方ない、なければラッキーだがだいたいついてくる、そういうもの。かといって賭け金でもない。
まさに手数料なのかも。
成功を得るためには必要なもの。天使にチップを払うようなものかもしれない。
エジソンだって失敗を『うまくいかない方法』と表した。
『失敗』はデータとしては財産だと思う。もしかしたら見方を変えれば成功かもしれないことは否めない。
ベッドの位置が決まらないのも失敗なら、今日なんとかいい感じになったのは成功かもしれない。手数料は10年近く払ったけれど。
良質な睡眠を得るために一番手っ取り早く整えられるのは寝具だ。
ここ3年ほど入眠も熟睡も起床も『最高』だったためしがない。
『嗚呼、寝なければ…』『そして朝には起きなければ…』と思いながら過ごす夜は憂鬱そのものだ。
朝方3時に気絶するように寝て、とりあえず意識を浮上させる。
それがここ最近までの私の『睡眠』だった。
実に最悪だ。早寝早起きでもなければ熟睡もできない。寝るのは好きだけれど、こんなに体も心も疲れるくらいなら寝ない方が楽だ。
朝起きてこのやるせない睡眠に悲しくなるしイライラする。
原因は特筆して思い浮かばなかったが、小さなあれこれが寄せ集まった結果だと思うと合点がいく程度。全く寝れないわけでもなかったので医者にかかることもしなかった。
バカ高いマットレスを買えばいいのだろうか?まずは食生活の改善か?でもお金が…そもそも生活は不規則だし…あーもう考えるのがめんどうくさい…と、ぐるぐる。
それが最近になってこの悪循環が目覚しいほど改善したのだ。睡眠だけに。
一つはツイッターをやめたこと。これはいつまでもスマホに熱中する時間を大幅に減らしてくれた。ウマ娘のアプリだけはやめられないけれど、心を乱すような情報も入ってこない分精神衛生にはよかったのかもしれない。ツイッターは確かに楽しかったし飽きなかったけれど、発信・受信・検索が出来る上に喜怒哀楽愛憎全てに簡単に振り切れてしまえると考えると、SNSの精神的影響は大きい。まぁ、うまく使いこなせなかった私の責任でもある。
インスタを始めたけれど、使い方の問題もあって投稿以外積極的に開いていないので今のところはツイッターのような影響は出ていない。
オタク趣味もあってツイッターではリアルの知人に知られることに敏感になっていたが、それも今はない。知りたいと言う人には教えている。コミュニティーの狭いオタクとして活動していた時よりグンと気が楽になったのも大きな要因かもしれない。
いいね、フォローが1つもらえるだけでとてもハッピーだ。ありがとうございます。
二つめは掃除を始めたこと。母親の入院というきっかけではあったけれど、いつかやらねばならないと思っていた家の断捨離と掃除は大きな意味があった。
これも『まぁいずれ…』『引越しの時にやる』『お金とか時間に余裕ができたら…』なんてそれっぽい言い訳をつけて見て見ぬフリをしていたけれど、結局どこかのタイミングでやらなければいつまでも目の上のたんこぶだ。
ほぼ毎日玄関と階段を拭き、部屋を軽くクリーナーがけする。本当は毎日したほうがいいのだろうけれど、週に一回はトイレを天井まで磨く。はじめのうちは物が多いこともあって途方に暮れて辟易したりもしたが、一日一日と目に見えて変わる我が家を見ると明日もがんばろうと思えるようになった。
掃除も料理も頭を使う。色々なパターンを考えて先を読んで行動する。ゴミの日をきちんと把握していないと、ゴミ袋が山積みになってしまう。
今は夏なので掃除をひとしきり終えた後にシャワーを浴びる。日の高い時間の風呂が好きな私にとって二回風呂に入れるのは実はちょっぴり嬉しい。贅沢ではあるけれど。
そうして一日汗をかいて頭も体もフル稼働させると否が応でも眠気が襲ってくる。
今まで『いつになれば寝てくれるんだ』と考えて布団に入っていたのに、心地よく体を預けて自然に入眠することができるようになってきた。毎日ではないけれど、確実にそうなってきたのだ。
そうして明日は何をしようか考えながらまどろんで、目覚ましをセットしている7時前に目が覚める。二度寝の気持ちよさを知っているから誘惑に勝つことはまだできない日も多いけれど、猫の朝ごはんの催促で8時には完全に起きて行動することも増えてきた。
あまりに朝活に縁がなかったので、何をすればいいかわからない状況にすらなっている。
太陽のせいで頭痛と吐き気を引き起こすことが多いため夏場に外に出るのは躊躇うが、朝なら散歩をするのにいいかもしれない。
朝起きて、夜眠る。
たったそれだけの普通のことだけれど、それができるってなんて幸せなんだろうと思う。
言い過ぎかもしれないが、健康である実感みたいなものすら覚える。
朝起きたらいい感じの音楽をかけて、コーヒーなんか飲んで優雅な時間を過ごしたい。
と思っていた自分に近いことができているかもしれない。
最近の好みで音楽はシティポップからテンション高めのエレクトロスウィング、サザンもSOUL‘d OUTも聴く。コーヒーじゃなくてカルディで買ったレモネードシロップを炭酸水で割って飲むのがマイブームではあるけれど、概ね叶っている。
まぁ、自分だったらきっとそんなもんだとも思っていたし、それがちょうどよい。
もうパターンなんてないだろうと思っていた部屋の模様替えもベッドの位置も、今の位置がなんだかしっくり来ている。
家の掃除をしていて死ぬほど寝具が仕舞ってあることを知って青ざめたりもしたが、なら今この死ぬほどある寝具を工夫すれば居心地いいベッドは作れるのでは?と試行錯誤した甲斐があった。
ひょんなところからきっかけはやってくるし、ないと思っていたものは実はあったりすることに気づく。…思っていた形ではないかもしれないけれど。
他にもいろいろなことをした…というか辞めた。
仕事だったり、人間関係だったり、言葉や感情だったり。
あとは作り置き。節約だからと一度に野菜だのを買って冷凍したが、思いのほかそれを活用しなくて自分には合わないと思って辞めてしまった。必要なときに必要なものを買い揃える方が無駄はなくなった。結局好きなものを好きなときに食べているので、凝ったことはしないほうがいいと思った。
絵を描いていたときに足し算ばかりしてゴールを見失っていた時に、思い切って引き算したときのことを思い出す。
案外、減らしたほうが足りてることもある。
『あ、これでいいのかも』という腑に落ちたスッキリ感がある。
過ぎたるは及ばざるが如し。
『ほしい』『足りない』と思って必死に求めていたけれど、本当は荷物が多すぎてどこにも新しいものを持てる状況じゃなかったのだと思う。
荷物持ちは『いつか』のために『今』をないがしろにするところがある。
私がそういう人間だったし、母親がそういう生き方をしていたのでもはや自然に身についてしまったことだったのかもしれない。
本当に必要なものって案外シンプル。
今はそういう生き方をしたい気分。
今あるもので今できる限りの満足を作り出すのは案外楽しいものだ。
今の満足もいずれもっと満足するための『手数料』かもしれないし。
人生ってもしかしてわらしべ長者なのかも?
君はそんなところで落ち着かないでくれよ。