概念と哀愁

notion & emotion

愛は出会い、別れ、透けた布切れ【日記】

 

ここ数日、色々なことがあった。

いや、日々色々なことがあって同じ日なんてないのに己の怠惰さを直視したくなくて『今日も代わり映えない日だった』と思っていたのかもしれない。

 

変わりたいと思いながら行動を起こさないのは臆病で怠惰だ。

髪を梳かせばブラシに髪が抜ける。今まで私の一部だった髪の毛はゴミ箱に行くしかなくなる。それを『変化』と捉えるには私はあまりにたくさんのことを無視していたのかもしれない。

 

『少し痩せたね』と言われて「いやいや、全然太ってる…」と反射的に言って、ハッとして「うん!痩せてる」と言いなおした。

水仕事で夏場でも荒れ始めた手を見て『汚い手』と言葉にしたとき、とてつもなく悲しくなって「ううん!すっごく綺麗な手だよ!」と言った。横にいる妹もすかさず『働き者の手じゃん』と言った。

 

他人から見たら私はデブかもしれないし、手だって汚いかもしれない。美容に関して前のめりで何かしているわけでもないから当然と言えば当然ではあるけれど。

だけど、だからって日々おざなりにしているわけではない。

毎日歩いて、掃除して、働いて、お風呂に入って労わって。

この体なしでは私は生活を送れていない。

母が入院してから私はどんなに仕事が忙しくても家の中のどこかしらを綺麗にしている。

最初のうちは「なぜこんなに汚いんだ!いらないものだらけ!」と、掃除するたびイライラしていたけれど、今となっては感謝と楽しみしかない。

もちろん「なにこれ!」となることもあるけれど、少しずつ綺麗になっていく我が家を見て『ここが私の城なんだ』と思い始めた。

これも他人から見ればまだまだ汚い部屋かもしれないが、私にとっては掃除するたびに美しく変化する『宝物』だ。賃貸ではあるけれど。

 

他人の言葉っていつの間にか自分を侵食しているのかもしれない。

『第三者視点』は大事だけれど、本質は自分の感情でなければならない。

 

きっと他人から見れば『デブな体』も『汚い手』も『汚い家』も、私にとっては大切で愛しいものたち。

 

猛烈に自分を見放してしまったようで切なくて『ごめんね』という気分になった。美しいと思うことは恥ずかしいことではないのにね。

私が私をねぎらって理解してあげなくてはどうするんだ。

言わせておけばいい。どうせ彼らは私じゃないんだからな。

誰かの感情に任せて自分の権利を奪わせてはいけない。

TOKIOも言ってる。富岡さんも言ってる。

 

とはいえ理想的かと言えば正直そうではない。

でも、理想はいつか絶対たどり着けるものだとかんがえるなら、地続きの今を愛するしかないと、思った今日この頃。

 

昨日私だったものも、明日私であることも感謝します。

 

今日も私が私でいてくれて嬉しい。ありがとう。

 

明日は私の家の自慢でもしよう。