渋谷にあるカフェ『人間関係』
佇まいは海外にあるようなカフェなのに、異様に目を惹く四字熟語。
なんだかドキッとしてしまうそのカフェを知ったのは10年以上前なのに、なぜだか今日に至るまで入ったことはなかった。
渋谷という街自体私にはあまり行く機会がないのもあったけれど、決まってこのカフェの前を通っては「気になっているんだよね」と言うだけ言ってスルーしていた。別に大きな理由があったわけではない。なんとなく「今じゃない」なんてよくわからない言い訳で機会を逃していたのだ。その上にあるピザ屋さんには入ったことがあるのに。
この全粒粉のスコーンは120円という安さに加えてイートインすると温めてくれて、なんと無料で脂肪分の高いホイップクリーム(クロテッドよりは軽い)をつけてくれるのだ。
「温めてクリームつけますか?」
と中年の男性店員さんに聞かれて、食い気味に「やったぁ!お願いします!」と言ってしまった。自分の直情は年を追うごとに表に出てくるようになった気がする。
喜びに関しては『出し惜しむものではないな』と思ってから特に顕著かもしれない。
自分の感情を大事にしようと意識したのもごく最近だ。
板張りの床のきしむ音、ガラス戸から少し差し込む外の明るさ、詰められた机と椅子は丸かったり四角かったりで雑然とはしているけれどそれも雰囲気によく馴染んでいて、湯気が出るほど温められたスコーンは甘さが控えめで私の口にはよく合った。
なんで今まで入らなかったんだろう。
今となっては何が「今じゃない」だったのかはわからないし、たぶんそれも言い訳にすぎず理由ではなかったのだと思う。
タイミングは運命とは少し違うものだと思う。
私は今さっきツイッターのアカウントを全て消した。
自分の持っていたアカウントは全部で3つ。主軸にしていたものは頻度が落ちた期間もあるが、11年呟き続けた。11年自分の意志で続けたものは他にないかもしれない。ツイ廃を自称するくらいにはお世話になったし、140文字という制限で小さな世界を作れるツイッターを私はすごく愛していた。
俳句や短歌のような哀愁すら感じていた。
ツイッターでは理由は面倒くさいからと割愛したけれど、正直に言えばSNSに疲れてしまったところはある。これも言葉の綾で、『SNSに向いていない自覚がありながら、やめない理由を探していたことに限界が来た』というほうが正しい。
ツイッターが悪いわけではないし、向き合い方のバランスが取れていれば何も問題はなかったと思う。
ただ、私の方がどうしても距離感を正せなかったのだ。
最初は本当に楽しかった。絵を描いて反応をもらえることが嬉しかったし、ツイッター以前には個人サイトも持っていたのでその延長のようなものだと思っていた。それよりも人との距離が近くて、反応をダイレクトにもらえる。同じ趣味の仲間が増える。井の中の蛙、大海を知る。
特に数字にもこだわりはなかったし、私自身始めてから5年くらいは300人前後のフォロワーさんがいる程度だった。ツイッター自体に人が増えて、創作のアプローチや広告戦略の側面が出始めて段々と『フォロワー』に大きな意味がついてきた頃だ。ジャンルが変わったこともあってフォロワーが1,000人を超えたあたりからだんだんと自分の作品の在り方が自分の中で変わってしまったように思う。
元々物心つく頃には絵を描いていた私には『絵を描く』ことが承認欲求を満たす目的の行為ではなく、誰も描かないから仕方なく私が描く!と言った『手段』でもなかったのでツイッター活用との齟齬が生じたのは必然かもしれない。
言っておきたいのは承認欲求のために絵を描くことも、手段として絵を描くことも私は全く悪くないと思っている。なんなら世界中の人が絵を描けばいいと思うくらいには目的はどうであれ絵を描くことと生み出される絵自体にリスペクトがある。
なのでそういう意味でもツイッターと折り合いがつかなかったのだと思う。
これは『絵』というものを除いた私自身の性質も関係しているので致し方ないのだ。
誰も悪くないし、ツイッターも悪くない。
フォロワーが1万人を超え、2万人を超えたとき『このまま私はどうなりたいんだろう』とふと思った。
その違和感は数年越しに抱いてきたはずだ。1,000人から2,000人に増えたときも、5,000人を超えたときもずっとだ。
『何人フォロワーがいれば、どのくらいいいねがつけば私は満足するんだろう?』と考え始めた。人によっては贅沢な悩みかもしれないけれど、この数字問題は私の目的をどんどんとわかりづらいものにしていった。
数字なんて一番わかりやすいものがあるばかりに、本質を見失って数年経ってしまっていた。
じゃあ10万人!と目標を設定したとして、私の描きたいものが果たして10万人を集めるものなのだろうか?では10万人集めるための絵とは私が本当に描きたいものだろうか。
フォロワーが10万人いたとして今と何かかわるだろうか。
ただ好きに描いたものが絶大な人気になるような絵を描く自信も私にはなかった。
本当に、いいねもRTも感想ももらえたら嬉しいものだったのに「あの絵は伸びたのにこの絵は伸びなかった」「いいねはされるけどRTはしてもらえない」「あの人はいいねをたくさんもらえるしフォロワーが私の倍だ」と数字が評価として比べる要素になってしまったのは私の問題だった。
いいねがなくたっていいものはいいし、好きなものは好きだ。
だが1いいねと10,000いいねの差はどうしたって大きい。
絵を仕事として始めた私にとってそれが無視できる要素じゃなくなったこともツイッターをやめる選択を遠のけた。あけすけに言うが宣伝媒体を失うのは非情に惜しい。それも個人で仕事をするなら尚更費用のかからないSNSは積極的に活用してナンボだ。
そんなことをぐるぐるぐるぐる…
私って何のために絵を描いてたんだっけ???
これってホント、一概に全員そうなわけじゃないんですよ。ほんとよくある話ですけど、私のケースとしか言いようがない。
だってどれもこれもある側面では正しくて、無視できないことなんで選択することに遠回りはあっても間違いはないんですもん。
私は死ぬまで絵を描いていきたいと思ってるんです。
過去には絵を嫌いになりたくないから仕事にしないと言っていた時期もあります。それでもやっぱり絵を仕事にしたいと思って踏み切った。
実際仕事にしようと試みて、こうじゃないなあれも違うなってたくさんのことに気付いて。
多分自分の主軸が『絵を描かかないといけない』になってたんだと思います。
絵を描くことが目的のはずが、手段になっていたって本末転倒じゃないですか。
別に描かなくたっていいですよ。描きたくないなら。
もっと言えば
何が君の幸せ?
ってことを私は考えられてなかったんですね。
『絵を描く』
どんな?どこで?だれのために?どうやって?いつまで?
絵も描けない、絵を描く先も考えられない。
余計なものが多すぎたんだねアンパンマン…
よし、ツイッターやめよう!
え?ここで???????
はい。そうです。
ツイッターは良くも悪くも情報が多すぎた。
競争が嫌いなくせに比較はしてしまう私の性分を、ツイッターを続けたまま矯正するのは無理!!と私の中の精神科医が匙を投げたので。
ならまあ、いっそやめちゃえば?
ってなもんで。
自分でもこのまま続けててもなと思っていたのを無視していたのでね。
敬遠は一度覚えると癖になるってたっちゃんが言ってた。
味のしなくなったガムを『ガムだから』と言って噛み続けるのは不毛だよね。
例え近くにガムが売ってそうな店がなくたって、探せばガムは見つかるかもしれないし、ガムより素敵なものに出会うかもしれないしさ。
変な例えだね。
楽しかったのは事実ですし、だからこそ噛み続けちゃったのかもしれない。
でもまぁそれはそれとして新しいガムを見つけに行きます。
ガムじゃないものかもしれないけど。
タイミングって「今じゃない」と言い訳にしている自覚を持って「いいや、今だ」って飛び込むことなんじゃないかな。
それが一見無謀で、マイナスに見えても。
暗い店内で何がいくらでどんな店員さんがいるかわからなくても、思い切って入ってみたら安くておいしいスコーンを温めてくれて生クリームがついてくるかもしれないしね。
ツイッターやめようってなったとき、黙って垢を消せばいいのにって自分でも思いましたがやっぱり忽然と創作者さんがいなくなる寂しさは自分も知っていたので挨拶をさせていただきました。
自意識過剰やかまってちゃんと思われてもまぁ、他人の感情をどうすることもできんしね。ならいいやね。
これは私のひとつのけじめとしてやりました。
たくさんの方に反応いただけて本当に感謝しています。
『またあなたに逢えるのを楽しみに待ってさよなら』は東京事変の透明人間という歌のワンフレーズですが、本当にこの言葉通りに思っています。
このブログもどのくらいの方に見てもらえるのか、どこまで続けられるのかわかりませんがマイペースを取り戻す指針にできたらと思います。マイペースと目標を定めたら、またみんなに逢うためにどうにかこうにかやっていけるので。
と、言っても好きなものを好きなだけ表現するってだけです。自由にね。
私本当にツイッター垢もうないしインスタもティックトックもやってないし、なんならテレビすらないので(パソコンはあるのでYoutubeとTverは観れる)マジでこの情報社会で浦島太郎になるかもしれません。わはは!
最終的にはFAXと手紙を伝達手段にしたいとは思っていますけどもね。スマホも手放したいけど、便利だからね~~
それでも生きていきたい所存。
取捨選択が人生さ!