概念と哀愁

notion & emotion

心を燃やした鬼滅の映画【感想】

鬼滅の刃の映画を観ました。

 

皆様は観ましたでしょうか?鬼滅の刃無限列車編を。

きっと皆様観たことでしょう。一回ではなく何度も足を運んだ方もいらっしゃるかと思います。それほどに、どの観点から見ても素晴らしい映画でした。

声優の友人は「声優さんのすごさを感じた」と言っていました。映像、作画、音楽、殺陣の動き…きっと見る人により、視点により様々な素晴らしさを見出せる作品だったと思います。私も感性を揺さぶられましたから、それをここに記したいと思います。

 

まず、私は鬼滅の刃の原作は未読です。アニメは視聴しました。

正直なところ、私は流行りものに乗るのがとても苦手です。鬼滅にかかわらず盛り上がっているところに飛び込むことに躊躇してしまう人種でした。いや、今もそれは半分引きずっていますけども。世の中にいますよね。「流行っているから観る気にならない」とか「観たけどよさがわからなかった」とか。キメハラや逆キメハラなんて言葉も出来ましたけど、恐らく私はそれの渦中に当てはまってしまう人。(あえてそれを表には出しませんが)面倒くさくて布教しづらいオタクなわけです。

そんな私が何故日本中に旋風を興す映画を観ようと思ったのか。

色んなタイミングが重なりました。それを一つ一つお話していくと脱線しすぎて戻ってこれなくなりそうなので大きくは割愛しますが、一つは友人からの連絡です。

 

「鬼滅の映画見てきたんだけど、具合が悪い」

 

そんなラインが入ったもんだから電話してみると「よもやよもや」と言って電話に出る友人。「もしもし」忘れたんか????

このときはまだあんまり観る気にはなっていなくて、友人の「煉獄さんが、煉獄さんが」と言ううわ言を聞いてやろうと思った程度でした。

煉獄さん、知っているぞ!声が大きくて、どこを見ているかわからなくて、恐らく映画で死ぬ人だ!ツイッターでの間接摂取とネタバレを調べる性質によりなんとなくこんな人物でどうなるかは知っていました。主人公・炭治郎のターニングポイントになる人であることもうっすらと理解している。

その程度。

友人も私と同程度の情報量でなんの因果か知り合いに連れ立たれて観にいってこのザマだというのだ。恐ろしいことだ。

「とにかくしんどかったけど、いいものだから観てほしい」とそんな感じだったと思う。

そんな感じだったと思う?というのはお互い電話しながらきちんと会話になっていなかったからだ。お互い?お前どうした?お前はちゃんとしろって思うだろう?

私はそのときなぜか炭治郎を思って泣いていたのだ。

あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!

映画も観ていないのに、鬼滅ちょっと…なんて言ってた奴がなんで炭治郎に共感して泣いてんだよって話なんだが俺もわけがわからなかった。

私はアニメはこの時点で全て観ていて、炭治郎の生い立ちまでは知っていたのだ。言うなれば本当に順当に続きを観れる立場でいた。

一つ言っておきたいのが、私は流行りに乗じるのが苦手なのであって作品自体に何も思わないわけではない。私なりの感想と解釈は持っていて、でもそれを他人に「あ~流行っているもんね」とすげなく切られてしまうのがとても嫌だったのだ。流行っているから出てくる感情なもんか!という意地が逆に私の流行りものへの嫌悪感に変わってしまったのである。しかもそれを、本来嫌っているであろう「流行ってるもんね」と揶揄する奴らの立場を取るという最低の形で収まってしまっていた。本当に本末転倒、最強の天邪鬼という妖怪になってしまっていたのだ。

それに気付いたとき「じゃあ私はいつまでその妖怪でいるつもりなんだ?そんなわけわからんやつらに嫌味を言われるのが嫌なばかりに、正直な感情を殺してしまうのか?私がそうやって意地を張るより、ぐしゃぐしゃな感情を出してしまった方が自分にとってもいいことだし、誰に咎められるものでもないだろう。馬鹿にしたいならそうして馬鹿にしていたらいいじゃないか!」と、こう思い立ったのである。熱い手のひら返しからの手のひら返し!

そう思ったならやることは一つだ。

映画を観にいこう

 

翌日私はさっそくクソデカイオンへ鬼滅の刃無限列車編の映画を観にいった。

友人に「煉獄さんと目が合う真ん中の前の方の席がオススメ」と言われど真ん中の席を取った。多分どの席でも煉獄さんと目は合うと思うのだが、真ん中の席を取った。(どこ見てるのかわからないから目は合わなかったかもしれない)

人は少なかった。私と親子連れ数組とヤンキー風なお兄ちゃんが二人座っていた。

映画にはポップコーンでしょ!と買ったSサイズのポップコーンがクソデカすぎてイオンの規格を舐めていた。

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クソデカポップコーンと煉獄さん

煉獄さんのいる特典までもらってウキウキだった。

どうでもいいが私はこのとき髪型・髪色が猗窩座さんまんまだったので多分猗窩座ガチ勢に思われていても仕方がないと思う。それも覚悟の上だった。

そして私は赤井秀一赤井秀一めちゃめちゃ好き)のハンカチを握り締めながらスクリーンに向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

煉獄さ”ん”!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

もう大号泣だった。

中盤からずっと泣いていたかもしれない。私が盛大に泣いていたからかはわからないが、私のすすり泣く声だけが明るくなった映画館に響いていた。うしろのヤンキー風のお兄ちゃんも泣いていた。でも別に誰にどう思われてもいい。私はクソデカイオンをさ迷いながら泣いた。スタバで抹茶のドリンクを店員のお姉さんの力を借りてカスタマイズし一息入れて、帰り道にまた泣いた。イケメンに「どうして泣いてるの?子猫ちゃん」って声かけられても「いいから乗って!」とタクシーに乗せ、クソデカイオンに直行しポップコーンとコカ・コーラ0(イケメンなのでカロリーを気にするかもしれんので)と鬼滅の刃無限列車編のレイトショーのチケットを購入するしかできない。感想は聞きたいからラインも交換しよう、とそんなことを思いながら。そんなハプニングは一切起こらなかったので杞憂に終わったが。

 

色々なことを考えたけれど、やっぱり煉獄さんの生き様ばかりが花火のように大きく弾けては消えていった。

 

彼の真っ直ぐな生き様が最期の笑顔にこめられていたような気がする。

なにからどう話せばうまく伝わるのかはわからない。ここまでの文章も口調もまちまちで見づらくて仕方ないものだが、自分の整理だと思って書いていく。(今さらの前置き)

 

まず、お話として列車に乗って夢を操る血鬼術を使う魘夢により夢の中に引きずり込まれてしまう炭治郎たち。余談ですが、この元ネタがオカルト話の猿夢から来ていると知ってちょっと楽しみでした。

炭治郎たちは魘夢によって「望んでいる幸せな夢」を見ることになります。

つまり現実は無防備。そのまま現実でトドメさせるじゃん!ってなるけど、魘夢の美学は「幸せな夢のあと悪夢を見せて絶望させてから食う」ということらしいのであくまで夢を見させるのは下ごしらえみたいなもの。シェフ魘夢。こういうキャラはとてもいいですよね。自分の欲望に手間隙かけちゃうの。リスクをとるくらい自信もある。傍から見たら「今だ!!!!!ヤレ!!!!!」ですが、そんなのはナンセンスというもの。彼の不気味さは声優の平川さんの演技もあってとてもよかったです。

 

それぞれの夢もよく出来ていて、彼らの望みと深層心理を見事に描いているなと思いました。そして無意識下にあるものも。

 

伊之助の夢は仲間と鬼を倒すというものでしたが、他の仲間は無意識の世界が変わるのに対して伊之助は地続きのように夢と同じもの。つまり彼には無意識と意識に違いがないということなんでしょうね。とても正直な生き方だなと思いました。その実直さに周りが振り回されることもありますけど、そこにみんな眩しさと憧れを抱くところもあると思います。ツヤツヤのどんぐりはみんな好きだもんね。わかる。

 

善逸の夢は禰豆子ちゃんとデートをしているというもの。好きな女の子と一緒にいたいって君ホントかわいいな。でも善逸の夢の禰豆子ちゃんってすごく善逸にとって都合よく出来てないなって思ったんですよね。魘夢がどこまで夢に関与しているのかは定かでないので憶測ですけど。好きな子だったらもっとこんな風に自分を慕ってくれたら嬉しい、とかちょっとありえないような欲望あったりするじゃないですか。でも善逸は禰豆子ちゃんのこと禰豆子ちゃんのままで好きになってるんだなって。自分のことを好きな禰豆子ちゃんだから好きってわけじゃないのかなと思いました。もちろん好きになってほしいとは思っているだろうけども。そんな彼の無意識が真っ暗ってすごくらしいというか。無意識下の彼はあの暗闇の中すっごく存在が確立してるんですよね。なんで洋服なんだろう?って思ったんですけど、善逸って無意識下だと別人のように強いんですよね。つまりあれって最強別人の善逸ってことなのかな?と。確かに最強でしたけども。自分自身に自信がなさすぎて真っ暗なんでしょうけど、あの真っ暗な中だから雷鳴は大きく強く、音より早く光る。

無意識理解して「男が入ってくんな」って言ってるの、自分を理解しすぎている。笑

精神の核が見えないくらいなのに。

そして夢を見ているので現実の善逸(無意識)は無双していますね。これは相性がよかったかも。(魘夢からしたら最悪だけど)

 

炭治郎の夢はやはりといいますか、辛かった。そうだね。彼の悪夢は家族を殺されたところだから。幸せな夢が逆に辛い。家族が殺されずにずっとあのままみんなで過ごすことがどんなに彼の切なる願いかをひしひし感じました。でもそれと同時にその夢が「今」の炭治郎の願いではないことはスクリーン越しの私たちは知っているんですよね。だから「炭治郎、目覚めて」「炭治郎、がんばれ」と思ってしまった。それがどんなに残酷なことだとしても、私は炭治郎に後ろを振り返らないように願ってしまった。だって炭治郎は殺された家族の幸せを願えても、これからの彼らを幸せにすることはできない。鬼になった禰豆子ちゃんを人間に戻すこと、自分のこれからの人生を歩いていくことが「今」の炭治郎の願いだから。何度も何度も夢の中で自分の首を切る炭治郎の強い意志と強い精神力。首を切るのは一瞬でも夢の中ではきっと幸せでたまらない家族と自分を見ていた。どこかで刃を捨てられたらどんなに楽だっただろう。それでも炭治郎は自分の首を切り続けた。もういいよ、やめてなんてとても言えなかった。

最後は絶望も見せられたのに炭治郎はそれでも絶対夢から覚めた。

無意識の世界の描写をウユニ湖(みたいな感じ)にしたの、炭次郎の心の澄み渡りを表していて良かったです。あれを大画面で観れたのは映画の醍醐味かもしれません。あれを見せられたら途方もなく泣き崩れるしかない。核を見せた妖精みたいなの、核を壊そうとした青年が核を探していたから連れてきてくれたと言ってましたが、私がもし妖精だったら「綺麗なので見て!」って思っていただろうと思います。そこは多分見た人全てに委ねられていたのではないかなと思います。それがみんなの炭治郎への気持ちかもしれないですね。

優しい人って本当にどうしようもなく優しいですよね。許してくれる。怒ってくれる。居心地がいいですよね。でも居心地悪くもある。こんな自分を許さないでくれ、全てを見透かさないでくれって。キャラクターを「優しい」と納得させるって結構難しいことだと思うんです。

いくら「優しい」と紹介したところで「何が?どう?」ってところがないと私たちにはその「優しさ」が伝わらない。炭治郎は最初に出会った鬼を殺せず一晩明かしています。それでは鬼を斬る鬼殺隊には入れない。「優しすぎる」から。この経験があって後に炭治郎は鬼を斬る覚悟を持ちます。それは「非情さ」を手にしたわけではなく何が自分の「優しさ」なのかを理解したからだと思います。炭治郎が自分を優しいと思っているわけではないと思いますが、本質を第三者から見ればそういうことなのではないかと思いました。優しかったら殺さないっていうのはちょっと違うんですよね。鬼だから殺して当然って言うのも違うし。炭治郎は鬼を斬る覚悟がある。鬼に殺される覚悟もある。そういうことだと思います。

 

そして、煉獄さん。

貴方って人は!!!!!!!!!!

煉獄さんの夢、すごくないですか?見せ方もすごく上手かったし。

魘夢は「望んでいる幸せな夢」を見せています。死んだ人も生き返っているし、好きな子は自分とデートもしてくれる。そんな「都合のいい」夢を見せてくれるはずなのに、彼の夢はただ「現実」だった。ただの回想でしかなかったんですよね。

父上に柱のご報告に来たという彼の夢は何も「都合のいい」ものはなかった。

いや、それはあくまで他人から見た「都合のいい」ものだということをありありと突きつけてくれました。煉獄さんにとって「都合がいい」ものはないし、あってもそれが「実現できる」という自信がある。だから夢で炭治郎たちが「煉獄さんの継ぐ子になります!」というところだけは煉獄さんの「願望」であり、「実現できる夢(つまり都合のいい夢ではない)」だったんですね。事実、煉獄さんが生きていたらきっと炭次郎は煉獄さんの継ぐ子になっていたかもしれないですから。

なんの取り繕いもなく過去のままに父上に言われた言葉を聞き、最愛の弟の期待のこもった問いにも正直に答えた。嘘をつく事が煉獄さんにとって何より「都合が悪い」から。彼はいつだって「最善」を尽くし自分に「正直」に生きる男だということが映画からわかります。他人を変えることはできないと知っていて、他人がどう思っても自分の納得を選ぶ。だから父上ににべもない言葉を言われても揺るがなかった。他人に自分の感情を任せることはしない人なんだな、と。

煉獄さんの「回想」から見た私たちは自然な流れで「夢」という精神世界に引き込まれます。それから炭治郎の夢を見て、他の二人の夢を見ます。ものすごい違和感を感じるんですよね。三人の夢は「望んでいる幸せな夢」だってわかるのに、煉獄さんの夢だけまったくそう感じない。これ、すごく盲点だと思うんですけど、でも映画で散々私たちに言ってるんですよね。「人は幸せな夢を見たいもの」だって。私たちの潜在意識に「都合のいい」願いはわんさかあります。それを煉獄さんだけが真っ向から否定してくる。「都合のいい」ものなどはない。現実を、自分の正しいと思うように生きるだけ。

母上に言われたことはきっかけでしかないと思います。いや、もしかしたら呪いだったかもしれないけれど、彼はそれによって強く生きましたから。

無意識の精神世界が燃え盛っているのはまさに「心を燃やしている」からという彼らしい裏表のなさだと思いました。伊之助が意識と無意識に違いがない「正直」だとするなら、煉獄さんは意識と無意識に裏表がない「正直」ということだと思います。お弁当食べてるときも「うまい!」って大きな声で言ってたんで、心のままに生きてるんでしょう。笑

そして大切な「核」を壊そうとする者は許さない。煉獄さんは無意識でも核を壊されることが「死」を意味することだとわかっていたんだと思います。

自分の信念を曲げること、他人に曲げられてしまうことが「死」になる。

まさに生きることに実直で、「今」を大切にしているんだなと思いました。

一つ気になるのは、何故父上に柱の報告をするところを夢に見たのか。

柱になることが煉獄さんにとって大きな意味があったからでしょうか。このへんのことも考えたいし、考察してる方いたら聞きたいです。

柱を境にもっと自分の信念のままに生きる決意をしたのかな…

誰か私とそこを語ろう。あわよくば友達になってくれ。

 

無限列車編ではありますが、魘夢の首を切ったあと喜びもつかの間上弦の鬼の猗窩座が現れ煉獄さんは一騎打ちをすることになります。

それがもう、かっこいいしかっこいいので劇場で観ていただきたいです。

それはさておき、猗窩座の目的は煉獄さんを鬼にすること。

 よくわからんが猗窩座は煉獄さんと死なずにずっと戦って強くなりたいんだな。なるほど!刃牙のものか!

この辺、私が原作を観ていないから猗窩座がなぜこんなに煉獄さんに執着するのかわからないだけかもしれないんですけど。ただ、だからこそ煉獄さんのことを中心に考えられるのでそこは置いておくとします。

猗窩座は「鬼になれば今より強くなれるし、永遠に老いて死ぬことはない」と煉獄さんを誘惑しますが(無惨様にパワハラされて殺されることがあることは黙ってたな)、煉獄さんは「君とは価値観が違う。君が嫌いだ」と言って拒否します。

 

煉獄さん、ここでもブレない。そこにシビれる!あこがれるゥ!

 

煉獄さん、他人を「嫌いだ」って言うんだ。でもこれ相手を傷つける為に言うわけではなくて「相容れない者同士だから離れたほうがいい」っていうことなんですよね。

煉獄さんが正直者である以上に、自分も嫌われる覚悟がある。

猗窩座、君、覚悟してきてる人ですよね?

「嫌い」って言葉はとても強い言葉で、煉獄さんもその言葉の強さは理解していると思います。

それでも煉獄さんは確かに猗窩座が嫌いで(かわいそうだね)口に出している。

それとは別に「価値観が違う」とも言っている。価値観が同じだから好きってものではなくて、嫌いだし価値観も違うしってことなんだと思います。猗窩座散々ですね…自業自得だけど。だから猗窩座が否定されていいってわけでもないと思うんですけどね。私は価値観の違いに優劣はないと思っているので。

そんな曲がらない・揺るがない煉獄さんに猗窩座は言うわけです。

 

死んでくれ杏寿郎 若く強いまま

 

ツイッターでいっぱい見たぞ!

何せこのセリフを石田彰が言うのだ。すさまじいまでの説得力。

映画館で浴びてくれ。

勝手な科白に「はい、そうですか」とやられる煉獄さんではありません。

乗客に1人の死者もなく守るという大儀が彼にはあります。

煉獄さんは実現できないことは言いません。必ず実現させる男です。

その言葉の通り煉獄さんは列車に乗っていた人間を全員守りぬきます。

腹に風穴を開けられ、目をつぶされても決して「1人の死者も出さない」という自分の気持ちに正直に生きました。

ここからはもうずっと泣いていました。

炭治郎が何度も首を切っては現実に立ち向かうのを「がんばれ」という気持ちで観ていたのに、煉獄さんにはまったく思わなかった。

煉獄さんはただ現実を生きているから。がんばっているわけではないから。

ただただ一人の男の命の輝きを見せられたのです。

そして最期に煉獄さんは炭治郎に言うんです。

 

「胸を張って生きろ」

 

と。

私は原作も持っていないし、映画も一回しか観ていないので、セリフはニュアンスになってしまうんですが、この先どうしようもなくなって足をとめてしまうことがあるかもしれないけれど「時間は止まってくれない。ともに寄り添って悲しんではくれない」というセリフに胸を打たれました。

そうだ、時間は解決するのに必要なだけで、自分で解決していかなければならないんだ。現実は非情で、どんどん私を置いていく。それでも立って歩かないと、前に進めない。きっと誰にも出会えない。

炭治郎にただ「優しいだけ」の言葉を煉獄さんはかけなかった。それがどうしようもなく優しい。きっと炭治郎が立ち止まってしゃがみこんでしまったとき、優しいだけの言葉では立ち上がれないのを知っている。でも煉獄さんのその言葉があれば、きっと炭治郎は立ち上がって歩ける。そういう言葉なんだ。

20歳の青年が最期に遺す言葉としてはあまりに優しい。

だって彼は「死にたくない」とは言わなかった。

残された弟に「自分の正しいと思うままに生きてほしい」と言い、父に「体に気をつけてほしい」と言った。

そして自分が死んでしまうことを「気にするな」と言って笑った。

自分が死んでも、炭次郎たちが必ず自分の心のままに生きてくれると思ったから思い残すことがなかったんだろう。

燃え盛るような彼の人生は最期まで燃えていた。その火はきっと、ずっと燃え続ける。炭治郎たちが生きている限り、炭治郎たちが次の世代にその魂を引き継ぐ限り。

 

思い残すことはあったかもしれない。やりたいことも、食べたいものも、もしかしたら結婚もしたかったかもしれない。炭治郎を継ぐ子にしてたくさん鍛えてやりたかったかもしれない。

それでも後悔はなかった。そういう人生をちゃんと生きてきた。

 

炭治郎はそんな煉獄さんの生き様を見て「自分では追いつけない」と途方にくれてしまうけれど、そんな炭治郎に伊之助は

 

「どんなに惨めでも恥ずかしくても生きてかなきゃならないんだぞ!」

 

と、叱咤します。

生きている限り、「自分」を生きていかなければならないのが私たちの運命であり宿命です。

炭治郎だってそれはわかっているけれど、煉獄さんという強く潔い男の死はあまりにもあっけなく残酷で、どうしようもない気持ちになってしまいました。自分も煉獄さんのように生きれるのか、漠然とした不安と恐怖が襲ってくる。

それを猪突猛進正直男の伊之助が泣きながら叫ぶシーンはたまらないものがありました。

映画を観た後、炭治郎に伊之助と善逸という仲間がいて本当によかったと思いました。

炭治郎には彼らが必要で、彼らにも炭治郎が必要。三人が暗闇の中でもきちんと立って歩いていたから出会えたことを大切にしてほしいと思いました。

 

猗窩座に向かって「煉獄さんの勝ちだ!」と叫んだ炭治郎の強さを煉獄さんは嬉しく思ったんでしょうね。だって煉獄さんは誰に言われなくたって強く在ったし、死ぬことも気にしなかった。それでも炭治郎が煉獄さんを「強い」と言って力の入らない体で精一杯叫んだこと、誇らしかったのだと思います。炭治郎も煉獄さんに「この少年は弱くない、侮辱するな」と言われたこと、嬉しかったと思います。

誰だって自分のやってきたことを認められたら嬉しいです。100万歩の道のりは遠くとも一歩進んだことを肯定してもらえたら、立ち上がって前を歩ける。99万9999歩を歩いていける。煉獄さんは信じてくれているぞ!この先どんなことがあっても前を向いて歩くことができるんだろうと思いました。

欲を言えば煉獄さんの継ぐ子になった炭治郎は見たかったけれど、これでよかったと思います。

死を肯定するわけではないけれど、煉獄さんの生き様はあの最期につまっていました。なので、肯定しなければ煉獄さんに失礼だと私は思っています。

死を否定したところで必ずやってくるものですから、これは言葉のあやですけど。

 

「これでいい」と最期に笑える人生を送るってどうしてこんなに幸せなんでしょうね。

煉獄さんの死による悲しみと、彼の正しい生き方は別物で、私は泣きながら「よかった、よかった」と言ってしまいました。情緒が正しくおかしい。

彼のような生き方が出来たら最高です。自分らしく在るという生き方。

観てよかった。ありがとう煉獄さん。

 

ここまでつらつらと書き綴ってきてよく最後まで見てくださいました!

途中でリタイアした人もいるかもしれませんね。ポップコーンのくだりあたりで。

まだまだ書ききれてないとは思うんですが一通り書けたので今日はこのくらいにします。

また書くかもしれません。

最後に勢いで描いた煉獄さんと炭次郎も貼っておきます。

東京事変のスーパースターはすごい歌だってことも伝えときます。

みんな知ってるか!!わはは!

それでは、ありがとうございました!

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スーパースター

炭治郎の豆の潰れた手のひらが好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余談

映画を観て、色々な作品を思い出したりもしました。ジョジョとか。

ブチャラティも「気にするな」って言ってた…

そんな中で鋼の錬金術師エドが言ったセリフをどうしても思い出してしまったので書いておきます。

 

「立って歩け 前へ進め あんたには立派な足がついてるじゃないか」

 

鬼滅の話してんのに鋼の話すんな~!ってなりますけど、この言葉は誰にでも刺さるものなので…

いつだって強い彼らは私たちに立っちあがって前へ歩いていけと叱咤する。立ち上がることも、前に進むことも私にしか出来ないことだと。

 

大切なことはいつも彼らが教えてくれます。

だから私は「創作」が好きなんだ。