概念と哀愁

notion & emotion

手話と会話と多様性の話

 

母と1年ぶりに暮らしだして増えたものがある。

会話だ。

とりとめもなく、深夜2時に始まったりする。女同士だからね。二人とも口から生まれたみたいなところはあるし。

 

それは私が1年間一人暮らしと在宅ワークによりほぼ人と密な会話をしてこなかったところもあるが、1年前に母親と暮らしていた頃と比べお互いの心境の変化もあり、1年前より色々な意味で会話が増えたのだ。元々会話が少なかった訳でもないが、その辺の事情は割愛しよう。

 

いきなり、唐突に、身の上話のような日常のなんてことない話をはじめて申し訳ない。

なんとなく誰に向けた訳でもないけれども、他愛ない話も書いてみようと思った次第なので、お付き合いいただけたら嬉しい。

 

見ても見なくても自由だ。

 

そんな前置き。

 

 

私は幼少期、保育園に通っていた。幼稚園にいたこともあったけど、小学校に上がる手前で両親が離婚したことから母親が親権を得て、仕事をするため私と妹は保育園に行くことになった。

記憶は保育園の方が鮮明に覚えている。

園は全体的に青い外観で、庭が狭かったので遊び場は近くの公園に行くこともあった。運動会は小学校を借りて行っていた記憶がある。おそらく保育園や幼稚園には珍しく、屋上も遊び場として解放されていた。

その保育園には他にも特徴があった。園児の中に補聴器をつけた子供がいた。

約半分は聴覚障がいか、もしくはなんらかの障がいを持った子供達だったのだ。

私は聴覚もその他の身体にも障がいと呼べるものはなかったので、園の半分を占める「健常者」の子供だった。

分けられたり隔てられたりもない。小さな園で園児は平等に遊んでいた。

 

園長先生は耳鼻科の有名な先生だった。

 

当時の私はそんな園の「特殊な環境」をさほど不思議だとは思わなかった。「耳が聴こえづらいお友達がいるから、大きな声でゆっくり話しましょう」が園内の常識で、特に疑問も持たず受け入れ、極めてのびのびと園生活を送っていた。取り立てて不自由さを感じたこともなかった。

補聴器というものに初めて触れたのもその時だ。きっと先生が丁寧に説明してくれたんだろう。「耳が不自由な友達にとって大切なもの」と理解していたし、今はあまり覚えていないが補聴器の付け方や扱いもわかっていて、時々友達の補聴器をつける手伝いもしていたような思い出もある。(当時の補聴器なので今と勝手は若干変わるかもしれない)

同年代の子供と比べると「障がい者」と接することが「普通」だったし、それに対して嫌悪も恐怖もなければおかしなことだとも思わなかった。子供心に「自分とは違う」ことになんら疑問を持たなかったのだと思う。「そういうもんなんだろう」くらいのマイペースな性格と、周りの「健常者」の子供たちも至って普通に接していたからかもしれない。

母親は当時の環境を「耳が不自由な子供たちに限らず、車椅子の人が扉を開けられずに困っていればそれを察して何も言われなくとも扉を開けたり手を差し伸べていた。だからよかったなと思った」と言っていた。

世の中には「健常者視点」ではわからない不便さや不具合がたくさんある。

私と妹はそれを幼くして理解し、自分たちに出来ることを率先して行動できるようになっていた。

今思い出してもその経験があったことは、少なからず今の自分に良い影響を与えてくれたと思っている。

 

さて、この保育園だがなぜこんな「特殊な環境」だったかと言えば、前述した園長先生がもちろん起因している。

かと言って園長先生が故意にそういった園児を集めたわけではない。

園長先生の噂を聞きつけ、全国から聴覚障害のある我が子を入園させようと集まったのだ。

 

突然だがみなさんは『手話』をご存知だろうか?

手話ができなくとも、それが『言語』の一つであることはご存知の方も少なくはないでしょう。

聴覚に頼れない人にとっての大切なコミュニケーションツールだ。日本に限らず全世界で使われるのだから、文明とはすごいものだと改めて感嘆する。

 

その手話だが、私はこれだけ耳の不自由な友達に囲まれながら手話は全くできなかった。覚えた試しもない。なんなら保育園の絵本に点字が施されていて、そちらの方が馴染みがあったくらいだ。(点字も読めないが)

先生の中には手話が出来た先生もいたかもしれないが、手話自体あまりツールとして使われていなかった。園児の方も手話を使わなくてもいい程度だったのかもしれないが、補助的にも使われた記憶が無い。大きな声でゆっくりと話していた記憶しかないのだ。

まぁ、昔のことなので定かではないのだが。

 

しかしそれにはわけがある。

園長先生だ。

園長先生は手話を簡単に使わせることに懸念を抱いている人だった。耳鼻科としての仕事がどうこうということとも少し違う。

理由はこうだ。 

 

「人間には口が備わっている。耳が聴こえないからと言ってすぐに手話に切り替えてしまうと、口を使わなくなる。口の筋肉というのは一旦衰えると再生するのは難しい部位なんだ。それに、自分が声を出すことによって聴力が戻る場合もある。だれかが大きな声を出して、それを真似て声を出し口を動かすことは人間としてとても重要なんだ。」

 

要は、人間に本来備わっている機能を無視したまま別のツールだけに頼ってはいけないということなのだと私は思う。

軽度だろうと重度だろうと、先生は人間が本来使って然るべき機能を無下にすることに懸念を呈したのだ。

先生の言う通り、実際それで聴力が改善された例もあった。一生懸命音を探るために視覚や触覚も働かせるのだからそれも発育には良かったと思う。手話が悪い訳では無い。しかし手話だけに頼ることは、子供の可能性を狭めかねないことになるのだ。

親であるならなおさら、一生耳が不自由でいるよりは少しでも改善して発声による会話ができた方がいいと考えるだろう。

更に言うと、先生は保育園卒園までに聴覚障がいのある園児に小学校3年生までの学習を基礎的ながら教えていたと言う。

先生は人間の本来ある力を信じていたし、備わっている器官を決して無視しなかった。しかしその考えがまだまだ周りには現実的に及ばない実情も見越していたのだと思う。

 

 

だから先生は「健常者」の子供と「障がい者」の子供を半々に受け入れる園を作った。より日常的に「音のある環境」を作るために。前述したように「健常者」である子供にも良い影響があったのは確かだ。

実際程度はどうであれ、コミュニケーション自体はどの園児ともとれた為、私に手話が必要にならなかったのは事実だった。

その試みが噂になり、今のようにネットやSNSの普及していない時分、全国の聴覚障がいの子を持つ親を殺到させるに至ったわけなのだ。

 

 

なぜこの話をしたかと言うと、特に大きな理由は無い。

母親と会話していたときにふとそんな話になったのだ。私も母親に言われるまで「なぜ保育園のとき、あんなに補聴器をつけた子供が多かったのだろう」などと思わなかったし、園長先生が耳鼻科の名医とも知らなかった。

比べようもない環境にいたこともそうだし、それが当たり前すぎて疑問にならなかったからだ。強いて言えば、あまりにも補聴器が当たり前のように身近にあったので、補聴器をつけた人に「補聴器なんですね」と悪意なく言ったことを、健常者の身内に咎められて初めて「触れてはいけないことなのか」と認識したくらいだ。

様々な常識や情勢を知った今になって思えば、確かに特殊な環境だったなと思った。だからなのか、書こと思ったのかもしれない。

 

『多様性』が叫ばれる昨今、私たちが当たり前のように享受し、当たり前のように飲み込んできた「常識」が第三者によってメスを入れられ、それが「非常識」になることはもうなんら驚くことではなくなってきている。

良くも悪くも、見直すべきことがたくさんあって、何かのタイミングで「常識」がひっくり返ることが頻繁におこるのだ。

 

園長先生の話を聞くまで、私は当たり前のように「耳が聴こえないなら手話を使えばいいじゃない」と思っていた節がある。

それはそうなのだ。決して間違っていない。

だけど、それだけではない。

世の中には「健常者視点」ではわからない不便さや不具合がたくさんある。

しかし「健常者視点」でなければ盲目的になる部分も大いにあるのだ

 

私は、自分が「間違っていた」ことに気づくより、自分が「これだけが正しい」と思うことの方が危険だと思っている。

 

物事は、様々な視点から見る必要がある。

必要があると言ったが、別に無理して見なくてもいい。だけど見ると、やっぱり世界は少しだけ変わる。世界が変わると「楽しい」人はそうした方がいい。

それはきっと、誰かに「こっちからも見てみなよ」と言われる方が早くて、素直に見て素直に受け入れる方が良いのだ。

 

 

手話は必要だ。

だけど、口を使って会話することも必要なのだ。