「さっきのお客さん達、銭湯帰りかな?お風呂上がりのいい匂いがした。幸せの匂い」
そう言ってニコニコするバイト先の女の子に、私も少しだけ『幸せ』を感じた。
香水ではない、シャンプーや石鹸ではあるけれどドンピシャでそうでない。
『幸せの匂い』と表現するのがしっくりくる匂いには覚えがある。きっとみんなにあると思う。『幸せ』に直結する訳では無いけれど、言われてみたら「嗚呼、そうだね」と腑に落ちる表現だ。
彼女は度々『幸せの匂い』を伝えてくれる。
バターで玉ねぎを炒めてる時、お味噌汁をお椀に入れた時、パンを焼いた時。
愛おしそうに「幸せの匂いだね」と言うのだ。
私はその感性がたまらなく尊いと感じる。
繊細な彼女はアンテナを張りすぎると鋭く尖ったそれに押しつぶされてしまうから「いつもは閉まってるんだ」と言った。
クリエイティブだなと思う。
その言い方で私は足りたし、馬鹿にしたりもしなかった。そういう感覚は私にも備わっていたから。
『幸せの匂い』を感じるように、彼女のアンテナは人の悪意や哀しみの感情も人一倍に受信する。
夏になると失恋したことを思い出して塞ぎ込んで、何も無いのに涙がポロポロ出ちゃうから「夏は嫌い」と言っていた。
もう何年も経つのにね、と。
豊かな感性はいいものばかりを受信しないし綺麗なものしか作らない訳では無い。
しんどくなりながら吐き出せないものだってたくさんある。
彼女のアンテナが四六時中感度満点でいられないことを理解できるのに、仕舞われて何も受信できないようにされていることを私は身勝手にも「もったいない」と思ってしまう。
表現することを素晴らしいと思うけれど、その実それが表現されるまでにはたくさんの痛みを伴う場合がある。
それでも『幸せの匂い』に気付ける限り、アンテナを高く張り、誰かに伝えることをやめて欲しくはない。
きっとあなたが「幸せの匂いだね」と言葉することで楽になる人がいる。
表現することは人助けではないし使命ではないけれど、必要な人がいる。
幸せの匂い、幸せの色、幸せの音
知りたいことがたくさんある。
なんとなく書き留めたかった話。