概念と哀愁

notion & emotion

3回出会ったら【日記】

 

いつだったかオアシズの光浦さんが「3回同じ出来事に遭遇したら『縁』だと思って飛び込もうと決めている」と言い、カナダに留学を決めた事をよく思い出す。

 

1回目は偶然で2回目ももしかしたらたまたまかもしれないけれど、3回目はダメ押しってこと。

人間はどこまでを偶然だと思うのだろう。

私もこの法則と言うか、ルーティーンに倣って縁あるものを認識しようと思っている。

面白いことに、最近ひっきりなしに『広島』の情報ばかり目にするのだ。

3回どころか3日に一回は大なり小なり目にしている。テレビだってろくに観ない私からしたら偶然で片付けられない。今すぐには難しくとも、来年には行ってみようと思う。と言っても二回ほど行ったことがあるので初めて行くわけではないけれど。

何かがあるのかもしれない。

何もなくてもいい。呼ばれたのだから挨拶くらいしなくては。

人生はきっとそんな感じで行き先を決めるのだ。

 

大学の授業でイタリアに恋したように、目的地はふとした拍子に決まってしまう。

 

さて、少しずつ生活に変化が出てきました。

皆様、毎回お久しぶりでございます。私は元気です!

 

変化が出てきたと言うけれど、その実変化を起こしてるのは他ならない自分であります。

生活を改めるために新たに仕事を始めたり、誰かとの関係を見直したり。あるいは部屋の模様替えをして気分を改めたり、着ない服にありがとうとさよならを言ったり。

 

あんなに酷暑が続いたのに突然と冬を突きつけられて、慌てて毛布を出しました。

もう少し『秋』を楽しむ時間がほしいものです。

 

意識はしていましたが『痩せたね』『雰囲気が変わったね』と立て続けに言われたので、冒頭の3回の法則ではありませんが『あ、変わったのかも』と自分の変化を受け入れるようになりました。『痩せたかった』し『変わりたかった』ので、大きな変化はなくとも自分の理想とするところに近づけたようでうれしくもあります。

ここ数年忘れていた『自分』が戻ってきたような、もしくは新しく見つけたようなそんな気分です。私も『やっと見つけた』と思っているけれど、見つけられた方の自分も『遅いよ!待ってたんだから』と言っているようなそんな感じです。

決して今までが不幸だったとは思いませんが、サイズの合わない靴と掛け違えたボタンのまま不穏な食事会に参加していた気分から今は好きな服を着て好きなものを注文しているような感覚です。あとは一緒に食べてくれる友人を探すだけ。

人生は近くで見れば悲劇ですが、俯瞰してみれば喜劇とはよく言ったものです。

 

一進一退。自分のペースを探る日々です。

 

部屋を掃除していたのは褒められるためではなかったにしろ、『キレイになったね』『こんな明るかったんだね』と言われれば掃除してよかったと思いました。

部屋の空気を意識して変えた三ヶ月はどうやら無駄ではなかったようです。

 

まだまだ変えられなくて変わらなくてしんどい時もあるけれど、私は元気です!

 

いい言葉ですよね。

『落ち込むこともあるけれど、私は元気です』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おじいちゃんが『これなにかわかるか?』と財布から取り出したものがツイステのエペルくんのカードで『ゲームのキャラだね』と言ったら『俺は知らないけど、若い子にもらったから大事にする』と言ってニコニコ財布にしまっていました。

 

よくわからないのに大事にされるエペルくん…

なんでじいちゃんににくれたんだろうね…

 

ありがとう若い子…

大事にされてね…エペルくん…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

受け入れることが愛なら

 

「許し」ってなに?

 

宇多田ヒカルの『嵐の女神』の一説。

今は亡きお母さんの藤圭子さんを歌った歌なんでしょうね。

 

 

現在進行形で私は母親と確執があります。

『確執』と言っても、一方的かもしれない。

あまりにぐるぐると感情が渦巻いて、詳しい内容を吐露しようとブログを開いて、私の創作に星を押してくれた人がいるのを見て少し思いとどまりました。

 

私の宛てのない憤りをここに吐くのはちょっと違うのかもと。

星をくれた方、ありがとうございます。

 

勢い任せに思いを吐き出すことも大事だけれど、きっと私にはまだできることがあるのかもしれない。

母親に対して何度『諦めよう』と思っても、やっぱり『向きお合おう』という気持ちが捨てきれずにいる。

 

好きだったものを嫌いになるのはとても辛いことだとここ数年で感じました。

許されないことより許せない方がずっと苦しい。

もしかしたらやっぱり母親との関係を諦めなければならない結果になるかもしれないけれど、それでも自分を殺せないと思うから仕方のないことなのかもしれない。

 

愛があるから手放してほしいと何度も言ったけれど、母親には伝わらなくてそれが苦しい。

 

私は能天気に生きていたいだけなんだけれどね。

 

明日母が退院します。

 

いい方向に行くと思って寝よう!

聴いてくれてありがとう!おやすみなさい

 

幽霊の正体みたり枯れ尾花【日記】

 

恐怖心と言うのは概ね『未知』というところにある。

あじゃないか?こうじゃないか?と勝手に恐怖心を駆り立てるのだ。

ちゃんと確認してしまえば現実はきちんとそこにある。わかってしまえばなんてことはない。恐怖はただの既知のもの。

もしくは『あれは絶対に幽霊に違いない』という思い込みがそうさせているのだ。知ってる人から見れば『あれはススキだって』と呆れるかもしれないが、根拠なく幽霊だと信じているものには幽霊に他ならない。

意識とはそういうものだ。おもしろいことに。

 

私は知らないものやことにイライラする時がある。

それがどうしてなのかはあまりわからなくて、例えば流行っているから逆張りで反発しているからとか単純に興味がないのに視界に入るから鼻につくとかそういうことなのかもしれないと漠然と考えていた。

 

私は流行りに疎いしあまり積極的に追わないので、盛り上がってる頃にはそれがなぜそんなに流行っているのかがわからないことが多い。

Youtubeでたまたま見た動画でその流行りを目にした。

『なぜなぁぜ』

初めて見た感想:普通にイラつく動画だな

自分でも正直だなと思うくらいの感想が出た。

なにこれ?流行ってるのか??その動画を見たからか同じような動画がオススメに表示されて私は『もういいやめろ!』と思った。

その時は一気に押し寄せる不快感にシャットアウトしただけになったが、インスタを始めると同じような動画がたくさん出てきて再度『流行っているんだな』と認識した。

若者のノリはよくわからん!と頑固ジジイみたいなことを思っていたけれど、今日『これって元ネタなんなのだろう』と唐突に思った。考えたところで答えはわかるわけでもない。グーグル先生に聴いてしまうのが一番早い。

なるほど、歌の歌詞でそれをゲームにして流行らせたキャバ嬢がいるのか。

なるほど、『うざかわいい』というのは共通認識なのだな。

 

一気にイライラがなくなった。

私はこの謎のイライラの正体を知った。

自分が知らないものが流行っていることにイライラしていたのではない。そのものを知らないからイライラしていたのだ。

ああでもないこうでもないと流行ってる理由を考えていると、自分が一番イライラする理由をホイホイと自分の思考は提示してくるのだ。

自分の地雷は自分がよく知っている。

こうなんじゃない?ああなんじゃない?こんな理由だったらめっちゃイラつくよね?そんな流行に乗れないなんてもうオバさんじゃない?Www

この煽り上手め!(褒めとく)

そうやって考える時間のなんと苦々しいことか。無駄である。

さっさと調べればよかったのに。

枯れ尾花を幽霊だと思っている間、ずっと自分は最悪の思考に身を置くことになる。それも自分の意思で。

例えばこれがプラスなことならいい。楽しいことをずっと考えられるのはそれだけでハッピーだ。むしろ私はそういう思考ならそうなっていたい。

人間って面白いもので、最悪なことや悲劇的なことでも快感を得られる生き物なのである。思考があるばかりにバグすぎる。

 

幽霊が幽霊か枯れ尾花であるかはどうでもいいのだ。

そのとき自分がどう考えるかどう思うのか。現実はそうやって決まる。

 

さて、一番の敵は?

『めんどうくさい』である。

 

そう思った日。

 

 

 

 

 

君たちはどう生きるか【ジブリ】【語り】

 

映画は観ていないのですが(観てないんかい)私が最近よく観ているYoutubeバキバキ童貞(ぐんぴぃと相方土岡)が語っているのを観て感化されまして。

youtu.be

私もジブリについて語ってみようかなと。

 

実は全然違う記事を数日前に書いていたんですけど、私のクソwi‐fiが切れて(マジで夜はよくオフラインになる)そのまま飛んでしまって不貞寝していたんですよね。

まぁ、たいした内容でもなくて柏餅食べながらタンスをリメイクしたってだけなんですけど。そのうち気力が回復したらリベンジするかもしれません。そう言ってしたためしはない…。

 

よければバキ童の動画も観てほしいんですけど、二人ともかなりおしゃべりが上手。芸人さんなのでもちろんべしゃりが上手いのはそうなんですけど、伝える力というのか…熱量もそうですしちゃんと自分の中の感情を言葉に出来ていておもしろいんですよね。この動画はちょっと長いんですがあっという間に観れるので興味ある方はオススメです。

他の動画もおもしろくて好きです。あとぐんぴぃが哀ちゃん好きなのも親近感わくよね。

 

 

 

ともあれ私のジブリ遍歴ですが、最近のジブリ作品は疎くてもっぱら昔の作品が中心です。特に好きなのは魔女の宅急便紅の豚。トトロやラピュタも好きです。

あとはこないだロードショーを観てもののけ姫のすごさに改めて気付きました。

もののけ姫ってすごくないですか?

あまりにストーリーがしっかりしていて2時間で収められてるのもそうですけど、いい意味で2時間以上の体感を得られるすごい塩梅の映画だと思うんですよね。

止むに止まれず呪いを受け村を出たアシタカ、山犬に育てられた少女サン、女城主のエボシ、権力に従うジコ坊、里山を失ったオッコトヌシ、生と死を司るシシ神…こんなに勢力が多いのに変に端折るでもなくかといってだれるような描写もなくきちんと思惑が交錯して一箇所に集まるように描写されててすごいなと感嘆しました。

何度も観ていたはずなのに今まであまり考えたことが無かった。多分そのときの私の視点がそういう捉え方をしたんでしょうね。

決して貶めるつもりはないんですけど、アニメ映画ってどうしても要素が限られてもうちょっとほしいなって思うことがあるんですよね。

斬新さも必要なので原作ありきの映画だと映画限定のキャラにスポットが当たってしまうので物語としてちょっと偏るというか。でもそれだけじゃ既存キャラの存在が薄くなるので、見せ場が大胆に派手になってテンポを早めているなと感じます。あとは90分という時間制限もそうさせるのかもしれない。

それはそれで好きな作品も多いし、映画でしか観れない醍醐味もあるんですけど、バランスよく展開しているという点でもののけ姫って優れているんだなと感じました。正直こないだの金曜ロードショー観るまで『もののけ姫って評価高すぎじゃないか?』なんて思っているくらいだったので、鑑賞するタイミングって大事なのかもしれません。世間の評価と自分の評価のズレももちろんありますけどね。

 

もののけ姫で好きなシーンはモロがサンを『哀れで醜い、可愛い我が娘』と言う場面。なんというか、モロの賢く気高い生き方・考え方を見せられるシーンというか。モロが手放しにサンを『山犬で自分の娘』だとは言わないし、言えないところが二律背反というか…例えるならシャンクスの選択Bをしたのがモロ。(どんなだ)

自分は山犬だから山犬を育てるのと同じように育てたけど、サンが人間であることを決して否定しないというか…人間であることも尊重してるんですよね。それが残酷な結果になることもわかってて、それでも現実を絶対無視しなかった。モロの強さと言うか母性というか。この子を娘として育てた責任は取る、でも人間であることの責任は人間がとるべきだ。と考えている。サンが自分を『山犬だ』と言うたびにそれを突き放さなきゃならない。それでもする。この女は強いぞ…オッコトヌシが惚れるわけだ…。オッコトヌシ様もよく出来た方だけれどね。怒りをどうしても昇華できなかったことが悲しいし、理解も出来る。

もののけ姫もののけと人間の話なのに、もののけの方が『人間』みたいな感情を持っていて皮肉が効いているなとも思います。

アシタカに『あの子は人間だぞ』と言われて、それを一番よく理解しているのはモロですからね。モロが賢く気高く優しかったが故に皮肉にも一番人間として美しい根幹を育てているんですから…モロは教育本を出すべき。(着地浅)

 

あとはシシ神様の描き方ですかね。めちゃくちゃ不気味に、底知れなくて、人でももののけでもないしそうであるようにも見えるって描き方。シシ神様についてってなんかほぼフワッとしか言及されてないと思うんですよ。でも圧倒的存在感がある。目力のせいなのはそれはそう。昼間はもののけみたいな姿なのに、夜はでいだらぼっちっていうある種人間を模した存在になるの異質すぎますよね。

そして彼は(彼女でもあるかもしれん)生かしもするし殺しもする。

実に神らしい神だ。何をもって神と定義するかは文化や風習、宗教の違いによっても異なりますけど、多分一貫して神は『どうすることもできるし、どうもしない』って存在なんだと思います。まず生きるフィールドが違うから、人間の気持ちなんてわからないと思います。わからないというか『言ったらわかってくれる』かな。

『私今悲しいんです』と言ったとして『そうか、悲しいんだな』で終わるんですよね。悲しいからどうしたいか言ってくれないと行動しないというか。『悲しいんだね。で、どうしたい?楽になりたい?』みたいな。サイコパス上司かな???

いや、でも私の中での神ってそんな感じ。

シシ神がアシタカの痣を癒したとき、アシタカがどう望んでいたのかはわからない。でもアシタカは元は気高い神が人間によってタタリ神と化しそれを仕方なくとは言え討ってしまった罪悪感というか、罰せられるべき意識が少なからずあったから全治しなかったのかなと。言わないとわからんくせに繊細なとこ見極めるな…

いや、これはあくまで私の解釈です。

シシ神はあくまで目の前の者の声を聴いただけ。それ以上でもそれ以下でもない。

あのシシ神は私たちが考える畏怖や信仰心を視覚化した存在なんでしょう。宮崎駿は絵が上手い。(着地浅2)

 

 

もののけ姫でこんなに尺を使うとは思わなかった。

魔女の宅急便の好きなシーンもお話させてください。

 

魔女の宅急便ってあんまり魔女たるものへのスポットって当たってないんですよね。いや、劇中何度も魔女について言及したりあり方について言ってはいるんですが、その実『キキ』という13歳の少女の葛藤ばかり気になっちゃうというか。もちろんキキの成長が題材だというのはわかっています。13歳っていう絶妙な時期もいいですよね。天真爛漫だけではいられない、いろんな感情に振り回されて自分を見つけていく。魔女の宅急便には13歳の少女の瑞々しさがあります。

なんかだ文字にすると変態臭い。けれども私はキキを『セクシー』だと思うんですよね。

ウルスラの絵のモデルをすることになったキキは、なにもかもに自信を失っていてとても自分を好きになったりは出来ない時だったと思います。

魔法も使えない、男の子には距離を置いちゃう、気を許せる友達もいない。

鏡を見るのもきっと嫌だったはず。

そんな中で絵を描くために山小屋に篭るような、ヒッチハイクしたおじさんに男と間違えられてしまうようなともすれば変人のウルスラに絵のモデルを頼まれる。

『彼女ならいいか』と思えるだけの要素がある。これがデザイナーをしてる都会的でオシャレなお姉さんに頼まれていたらきっとキキは萎縮して断ってしまうと思う。なんで私なんかに頼むんだろうと怒りに似た感情だってわくかもしれない。別にウルスラを下に見ているわけではないけど、彼女なら裏表も透けて見えるほど悪意がないとわかるから、キキは楽だったのかもしれない。わざわざ遠出して会いに来てくれるくらいだしね。

ウルスラの絵って美しいけど、独特ですよね。

確かに芸術的だけれど、万人に受けるわけではない。私は絵を描くけれど、ウルスラの絵を見て『キレイ』とこぼしたキキに『この絵を見てまずキレイと言えるんだな』と思ったのを覚えている。私が幼かったのもあるけれど、あの絵を見て『どういう絵なんだ?』と思うのは多分不自然なことではないと思う。おまけに生首(に見える)はキキだって言う。似てないじゃん?!と。

キキはそれに対して『私、こんな美人じゃない!!』と言っていて、私はそれにも『キキはこの子が美人に見えるんだな』と思った。今見れば美しいと思えるし私もこの絵は好きだけれど、キキに似ているかと言われると似てはいないと思う。みんなはどうだろう。

 

ここから好きなセリフだが、

ウルスラは笑い飛ばすように『あんた美人よ』と言うのだ。

 

正直、キキを取り立てて美人に描いている描写はないし多分宮崎駿も美人には描いていないと思う。ジブリ作品の美人は華やかさがある。そうでなくても美しさを際立たせるような手法を使っていることが多い。キキは確かに可愛らしさがあるけれど、美人かと言われると少し違うと思う。年齢的にも『美人』というのはなんだかちぐはぐだ。

でもウルスラはさも当たり前のように言う。おべっかや冗談でなく心の底からキキを美人だと思っている。

 

きっとキキには晴天の霹靂だったかもしれない。だって自分には今いいところなんてひとつも見つからないんだから。魔法も使えないし、素直じゃなくてうじうじしてて何一つうまくいかない…魅力なんてどこにもない!

 

魔女の宅急便を観る時、自分がキキの目線の時とウルスラやオソノさん目線の時がある。キキのように悩むこともあれば、キキを愛おしく思う時もある。

ウルスラがキキを美人だと思う理由は多分探せば言葉に出来るかもしれないけれど、美人に見えることに理由を探したりはしない。

色々な要素があって、キキの美しさに惹かれているのだと思う。

 

キキがアイデンティティのない自分に自信をなくしてしまう気持ちもわかるし、キキという人間が悩んでいても苦しんでいても美しいと思うウルスラの気持ちもわかる。

 

魔女の宅急便はキキが13歳という子供と大人の境目で、また女の子であることの苦悩や葛藤を描いているけれど、いくつになってもキキの立場に戻されるときがある。

そんなときにウルスラの『あんた美人よ』を聞くとがんばれる気がする。

そういえばオソノさんも同じようなこと言ってくれていたな。

 

キキってセクシーじゃないですか?ちゃんと悩んで、ちゃんと自分を嫌になって、でも諦めない。最後には絶対元気になる。

13歳の女の子の瑞々しさが眩しくて好きな作品です。

私も『あんた美人よ』が言える人になりたいと思っています。

 

あとツイッターでも何度か言ってたんですが、ネタにされてるけど『私、魔女のキキ!こっちは黒猫のジジ!』って友達も紹介できるキキはめちゃんこ出来た子だと思います。紹介、大切。

 

 

 

 

長々語った割りにいつもどおりまとまってんだかなんだかですけど、みなさんも好きな作品のここがいい!を表現してみたら楽しいと思います。

『こんなシーンをそう見るんだ!?』という発見が出来て私は好きなんですよね。感想と言うか、解釈と言うか。

私はまだまだ言葉にできませんが、アウトプットしていきたいと思います。

更新頻度もうちょいあげようねーーーー!!!(フワちゃんのテンション)

 

 

 

 

 

 

 

 

父と洗濯の神社【夢の話】【ちょっとオカルト】

 

私は滅多に夢を見ない。

『夢を見ない』というのは言葉の綾で、もしかしたら見ているかもしれないけれど覚えていることがないのだ。だから夢の感覚があるまま目覚めることは珍しい。

 

覚えている夢はほぼ悪夢だけれど。

 

もともと幼少期から寝言をよく言う子供だったと聞いた。そのほとんどがうなされていて、とてもいい夢を見ているような感じではなかったらしい。

自分でもその自覚はあるし、おそらく楽しい夢よりも印象が強いので本当は悪夢ばかり見ているわけではないかもしれないけれどそう錯覚しているのかもしれない。

 

何度か同じ夢を見ることもあれば、妄想か白昼夢だったのかもしれないという曖昧なものもある。脳科学的なことを言えば、夢は記憶や脳の整理によるものだというから私が作り出したもので間違いないのだろう。

とにかく夢を見ること=悪夢な私にとって、『夢を見る』ことはとても疲れることなのだ。

 

『夢枕に立つ』とは、死んだ人間が自分の夢に現れることだ。

もうすぐ盆も近い。東京と地方とでは盆の期間はズレることもあるけれど、私の育った環境ではお盆は8月の今の時期を意味している。

 

父が死んで12年経った。

小学校を上がる前に離婚したため普通の親子のような関係は築けなかったけれど、私はファザコンと呼んでいいほど父が好きだった。好きというより多分人間として尊敬した部分があったのだと思う。尊敬できない部分もたっくさんあったけれど、自分の前にいる父はなんとなく『この人はすごい』と思わせるカリスマがあったのだ。

妹が産まれてすぐに糖尿病を患って余命半年を言い渡されたにも関わらず20年生きた。最期は末期ガンだったけれど、自分の症状を知らずに他人に治療されるのを嫌がって独学で病気を調べ上げ、医者と手術について意見し合うような父だった。医者としては勘弁してほしい限りだとは思うがそういうところが尊敬できたのだと思う。

50を過ぎても趣味の競馬を楽しむためにパソコンを自作していたのには驚いた。決して自慢できることではないのだが、ある事情で刑務所に入っていたときには服役中刑務所内の図書館の本をほとんど読みつくしていたと聴いた。

真っ当では決してなかったけれど、父の探究心と知識への意欲だけはたぶん誰よりも高かったことだけは確かだし、私はそんな父を尊敬していた。

 

最期は色々と揉めながらも(この話はまた別でします)父は逝ってしまった。

元々余命を言い渡されてから20年生きているので、63歳という若さではあったし悲しかったけれど『長生きしたな』と思った。

死んでしまったという事実よりも会いたいと思っても会えないという事実が寂しかった。

 

夢でも出てきてくれないかな。

実際何か話したいことはあまりなかったけれど、会えたら嬉しいだろうなと思った。

でも10年経っても夢には出てきてくれなかった。

別に幽霊が視えるわけでもないし、父も私に何か伝えることはなかったのかもしれない。

母の夢には何度か出てきてくれたらしい。離婚したとは言え、父をこの世の誰より頼っていた母にとって父の死は大きく、今現在でさえ父に会いたいと泣くくらいだ。

娘の私でなくても心配になる。多分、だから父は母のところに時々顔を出すんだろう。

 

妹に「パパの夢見たことある?」と聴くと「一回もないよ」と答えた。

少しだけ寂しかったけれど、娘二人のたくましさに父が心配していないことに安心した。生きている人間が出来ることのほうがきっと多いと私は思っている。私だって泣いて縋りたいときはあるけれど、心配で離れられないのは父が可哀想だ。本来父は自由人だから、魂は縛られずにいてほしい。死んだ人は生きている人を幸せにするために存在しているわけではない。

 

 

 

先日夢を見た。

母が入院生活の弱音から『パパが夢に出てきてほしい』と言った翌日の夜だったと思う。そんなことを言われたからか考えていたからなのか父が夢に出てきた。

 

そこは海だった。浜辺と言えばいいのか、波が大きく立っていてすごい迫力だった。

正確に言えばそこは神社だった。

海の波打ち際あたりに鳥居にも門にも見える重厚な建物が並んでいて、その開いた門から波が押し寄せてくる。

たぶん誰もが考えるような海の中にある鳥居みたいな感じではない。現実にあるものとして近いのは厳島神社だがどちらかといえば首里城のような建て構えの門が並んでいて、ジブリ作品のような大波がそこから寄せて返してくるのだ。起きてからそのような場所があるのかと検索したが同じような場所は見当たらなかった。

 

その大波にたくさんの人が海水浴を楽しむようにゆられていた。門から波がうねるたびに浮き輪に乗った人たちが門の内と外に出たり入ったり。波のプールの光景のようだ。その神社さえなければ波を楽しむお客さんでいっぱいの海でしかない。厳かな佇まいと海水浴場が変なマッチをしている。

夢の中ながら少しの違和感と、見たことがないけれどあまりに物語性のある絵に私は妙な高揚感を感じた。

 

『この神社はなんの神社なの?』という独り言のような疑問に、その神社の関係者なのか、門の上でライフセーバーのような役割をした若い男性が

 

『洗濯の神社だよ』

 

と拡声器で言った。(本当にライフセーバーみたいだ)

洗濯?あぁ、だからこうやってみんな波にゆられて洗われてるんだな。などと夢の中特有の変な納得をした。

それ以上の情報もなかったし、神社なのだからきっとご利益があるのだろうと私は目の前の砂浜で波にゆられる人々と厳かな神社の門を見ていた。

朱塗りの門と晴天と青々とした海が美しかった。

 

ふと隣を見ると父がいた。

 

私は夢の中だったけれど、これが夢のようなものという自覚があって、そういえば父が夢に出てきたことがない話をしていたなというメタ的なことまで考えられていた。

父は何か言っていたような気もするし、そうでないような気もする。

そこは何も覚えていない。何か話していたかもしれないけれど何を話したかはまったく覚えていない。

 

『父が夢に出てきた』

 

それだけをしっかり覚えたまま目覚めて、何度か夢の記憶を反芻した。

起きてすぐは夢の内容を覚えていることも多いけれど、時間が経つと忘れてしまうことがほとんどだった。だいたいが悪夢なので早く忘れたいからあまり反芻はしない。結果として『どんな夢かは覚えていないが夢見が最悪』という感覚だけが残る。

今回の夢は悪夢ではなかったし、珍しい情景と父が出てきたことを覚えておきたくてなんとか記憶することが出来た。

 

夢に意味があるのかはわからない。自意識の作り出したものだというなら尚更だ。

ただ、私の知識や経験に『洗濯の神社』はないし10年以上父が夢に現れたこともない。

何か具体的な指針を提示されたわけでもないし、感動的な後日談や補足があるわけでもない。

ただそれだけの夢だ。

 

実際そういう場所が本当にあったとして、私が見つけられていないだけかもしれない。

夢の中とは言え音だけで『洗濯の神社』と解釈したけれど、本当は『選択の神社』だったのかもしれない。

特に神様にお会いしたわけでもない。私は神社にいたというのになんの願いも頼みも、ましてや何かご挨拶的なこともせずただその情景を見ていただけだったので、神様に呼ばれたという実感もない。

せっかくの海だったのに入りもしなかったなと思った。

父とただ並んで座っていただけだった。

 

その情景を絵に起こしたいのだけれど、上手く表現できそうもない。

 

 

オチのない変な話にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

サマー!【日記】

 

暑さ寒さも彼岸まで

とは言うけれど、この暑さはどうにかならないものですかね。

お久しぶりです。3日に一度体調を崩しては2日寝込むを繰り返す虚弱です。

体力が…ない…眠い…だるい…でも食欲はめちゃくちゃある…なんでや…

 

皆様はどうおすごしでしょうか?

私は大好きなオカルト動画などで涼をとったりとらなかったり。

Youtubeにずっとオススメされていた呪物コレクターの田中俊行さんの動画を観てしまったばかりに色々そちらも漁りだしました。

呪物はどちらかというと民俗学に近いかもしれないですね。コトリバコ的な話が好きなので結構興味深く面白いです。

あんまりオカルトに傾倒するとエネルギーを奪われると言われるのでほどほどにしたいとは思います。体調もっと悪くなるのは嫌ですからね…

 

 

なんだか気分が浮いたり沈んだり。昨日あんなに前向きに考えていたことが今日は泥沼の中でもがくような感覚にとらわれて、ふとフラットな気持ちになったときにどっと疲れます。人間うまくいかないものです。

『描かなきゃ』とパソコンを開いては結局下書きもしないでシャットダウンすることも少なくありません。焦燥感と不安は前向きな気持とは裏腹な行動をさせます。むしろ行動をさせないようにします。そして自己嫌悪。自分もよく抗っているなと思いますけども。

描いた絵が誰かに見てもらえないフィールドを作っているのは自分じゃないか?と思い至り、二次創作のログをpixivを復活させて載せることにしました。やはり誰かに見てもらわなければ満たされないし、作品がかわいそうだなと思いました。私の絵を少なからず楽しみにしている人がいることを忘れていた気がします。さすがに10年ネットにあげ続けていますからね。それなりに楽しんでくださる方がいるのは存じております。

 

それに伴ってログを整理して見返していたんですが、まぁ毎回思うんですけどその度に

『私って絵が上手いな…』と我ながら思うんですよ…

不思議ですけど、自画自賛であり第三者目線で『いい作品だな』と思うんです。

自分が自分の好みに沿って描いているので当たり前と言えば当たり前ですが、それでも『このときの線がいい』とか『塗りが綺麗だな』とか他人様の作品を見て思うようなことを思い、面白いことに『私も描きたい…!』なんて感化されたりもするんです。

こういうとき『私って絵が好きなんだな』と思います。

 

祖母が私が幼い頃、海外のアーティストの画集をくれたことを最近思い出しました。

絵を描くことが好きだった私に初めて与えられた『画集』でした。

リアル調ではあたけれど、レトロでポップな色使いと軽やかな筆の流れが特徴的で毎日のように見返していたのを覚えています。

残念なことにその画集は今は手元にはなく、また海外のアーティストだったこともあって名前もわかりません。いくつかある特徴で検索したこともあったけれど、ジャンルが広いばかりに特定することは出来ませんでした。決してマイナーではなかったと思うし見ればすぐにわかるだろうけれど、探し出すのは少し困難かもしれません。

なぜ今まで忘れていたのか。

あの画集は一つの私のターニングポイントだったように思います。

『この絵はどうやって描いたんだろう』と画集を開くたびに考えていました。

独学で描いていた自分にとって、他人の技術は想像でしかありません。漫画で培った見よう見まねの技術とその絵の技術は異なっていました。

絵の知識のない祖母にとって『絵が好き』と言う情報だけで数ある中から選んだその絵は、私の興味の範疇にはないものでしたから私にとってカルチャーショックだったのかもしれません。

絵を描くのも好きだが、絵について考えるのも好きだ。

そう自覚した出来事だったと思います。

 

絵を描くのが億劫になるときが少なからずあります。

今までは夢中で描いてきたから考えたことなかったけれど、なぜそういうときがあるのだろう。

一人で考えているときほど答えはでないものなんですよね。あれかも?これかも?と雲を掴むような原因を見つけては『それも一つの理由ではある』と思いながらどこかしっくりきませんでした。

母親と喧嘩まがいの会話をしていたときに『私は私のアイディアしか描くことはできない』と口から出て、なぜか腑に落ちてしまったのです。『これだったのか』と母との言い争いもそこそこに何度か口の中で反芻しました。

『私は私のアイディアしか描くことはできない』

急かされるように『描かなきゃ』と思っていた物は、今までは『はやく表現しないと落ち着かない』と思っていたものだったけれど、最近では『描かないと誰かからの評価がもらえない』にすりかわっていた気がします。

それを不純な理由だとは思いません。誰かに評価されたり喜んでもらいたいから表現するというのは立派なモチベーションで理由です。しかしながら私にとっての活動源とはズレていました。億劫なのは他人の軸で理由を見ていたからだったのだなと思いました。私がどうしたいかが上手い具合にすりかわっていた。これは色々な場面でよく起こりうることです。

目的と手段が入れ替わってしまうというやつだ。厄介なことに様々な場面でそれは起きて私を惑わせる。『私って何のために何がしたくてこれやってたんだっけ?』となって足を止めさせます。

 

もっと明確に目標があれば迷わずすすめるのかもしれませんけど、うまくいかないものですね。

 

 

絵を描くということをこの短期間でいろんな角度から考えてきましたけど、まだまだ考えては答えを出していきそうです。

 

描くことも、書くことももうちょっと調子よくうまくなりたいものです。

ゆっくりのんびりしてられないと思っていたけれど、せかせか生きたいわけではなかったしなと思い直し、開き直って図々しく活動していこうと思いました。

pixivもインスタもそうだし、他も色々とね。ダメだと思っていたことを考え直します。

やりたいことやったもん勝ちの精神。

 

 

今日もまた、支離滅裂な文章を見ていただきありがとうございます。

 

 

 

 

 

スズグル…【ウマ娘】

水着イベ…

 

ガチャはダメでしたが(サポカでカフェだけ無凸神引きはしました)無料配布の女帝があまりによずぎてどうでもよくなりました。

 

なんなんだ…エアグルーヴ…美しさの化身か???????

 

何より、スズグル好きだったので満足です!

 

今回のシナリオもよかったなぁ。

お決まりハッピーエンドと言われていても、やっぱりほしいのは大団円じゃぁないか。

 

青春であったり、初恋であったり、一瞬の優しさであったりを『一粒の金』と言うのはとてもいいですね。

『財産』と言えばそうだけれど、なんと言うか使っても使わなくても『これがある』というものが心にあるということは、それだけで人間を強く生かすから。保険というほど確かではないけれど、へそくりというほど俗的でもない。だから女帝が「ほしいとおもってそこにないと気付いたとき、とてつもない渇望を産む(意訳)」って言ってたのが沁みました。そうね。きっと今(ほしいと思った時に)から作るには遅すぎる宝物なんだよね。

抉られたトレーナーさんも多いと思います。

 

いつか、この素晴らしい日々があるから生きられると思う日が来るかもしれない。

それを『一粒の金』と言わずしてなんなのだろう。

何かを買うことは決して出来ないけれど、パンを買うためにがんばる力をくれるものだ。

 

エアグルーヴの達観した考えもそうだけれど、スズカの史実を考えたメタ的なものかなとも思います。

サイレンススズカは、一粒の金でなく重い鉛を置いていってしまったけれど。

 

私がウマ娘にハマッて競馬も見始めた時、タイミングよくパンサラッサが大逃げした天皇賞が開催していました。

私は沈黙の日曜日の当事者ではなかったけれど、やはりあのレースは特別だったのだとリアルタイムで感じました。

それと同時にパンサラッサの大逃げは、たくさんの人の『呪い』を解いたのだと思っています。

全てではないし、そんな簡単なことでもないかもしれないけれどきっとあのパンサラッサの走りは誰かの時間を確実にすすめてくれたように思います。大けやきを超えた時空に連れ戻してくれた。ジンクスってああやって破られるのかもしれない。

私が『競馬はドラマ』を体感した出来事でした。

 

と、話はそれましたが、女帝サポカ案の定対象をぼかしてて上手いなと思いましたね!たわけでもスズカでもイケル文章だ…

シナリオではグラスにスズカが映っていたのにな!!!!

なんですかあの演出は!!

は~~~女帝は罪作りだぜ…

 

 

スズカ

ベロちゃん

普段と違う描き方したくてまぁまぁ気に入ってはいるけどスズカさんに盛りすぎたでござる。

 

スズ♂グル

口説いてる

ヤンキースズカ♂

ケチャップ

ヤンキーくんと女帝ちゃん

スズ♂グル

たわけさん

たわけは好きでも嫌いでもないスズカ

 

スズ♂グルが好きなんですけど、絶対元性別だったらデキてる(付き合ってない)二人なはずだ…

 

水着も描きたいぜ…